私たちが久米島を選んだ理由
久米島からの熱い思いに応えて
私たちが久米島に会社を設立したのは平成20年と日は浅いですが、それ以前から私たちのグループ長は久米島に通っていました。
グループ長が言うには、久米島には非常に情熱を持った人がいて、久米島のことを本当に大好きなので、その人たちの思いに応えるためにも、私たちも久米島に貢献しなければならないということでした。
グループ長はさらにこう続けました。
「久米島の人たちはやさしく、久米島に行けば久米島の人たちを好きになるでしょう。ですが、それだけの理由で久米島に住んではいけません。価値を運べない人が久米島にはいると、久米島の人たちの仕事を奪うことになりかねません。久米島の人たちは気持ちよく受け入れてくれますが、それに甘えてもいけません。ですが、私たちに価値を生み出す技術があるなら、久米島のために命を懸ける覚悟があるのなら久米島に入りましょう。」と、
そうして、私たちは久米島に会社を作ることになりました。
久米島での苦難
会社設立の話が出たころ、久米島に懸けたいと名乗り出た青年がいました。その青年が久米島に入り、久米島のために働くことになりましたが、ここからは苦難の連続でした。
私たちは久米島に仕事を作るために入ったのであって、久米島に職を奪いに行ったのではありません。ですが、青年は久米島の人たちと交流しているうちに久米島の人になりきってしまいました。しかも、それは本当の久米島の人の姿ではありませんでした。久米島の人は日々精一杯仕事をし、その上で私たちと向き合ってくれていましたが、青年は久米島の人と向き合うだけで、お金を稼ぐことをおろそかにしてしまいました。そうしているうちに生活することもできなくなっていったのです。
青年が去った後に何人かが久米島に渡りましたが、みんな同じようにいなくなっていました。みんなお金のためじゃないといいつつも、結局はお金で辞めていきました。私たちも多大なお金を使いましたが、久米島に何も残せませんでした。
私たちはそこでより深く学びました。
地域に貢献しようとするのであれば、地域の人たちと同じ生活、同じ労働、同じ食べ物を食べ、一緒に遊び、地域の人と時間を共有することではじめて同じ場に立つことが認められます。さらに、その上で新しいことにチャレンジをしなければ何も変わらないということを痛感しました。地域と同化することは簡単でも、地域に貢献することは難しいということも学びました。それとともに一番大事なこととして、お金のために仕事をしたくなくても、生きるためには必死に働かなければならないということに気がついたのです。
それでも久米島を大切にしたい
久米島からは多くのことを学ばせてもらいました。金銭的な被害にもあい、嫌になることもたくさんありました。築き上げた信頼も全て人にもっていかれて何も残りませんでした。私たちが嫌な思いをした以上に久米島の方にもご迷惑をお掛けした分、双方にわだかまりが残ったと感じています。しかし、私たちは反省を胸にしまい、こらからも久米島に残ります。周りの人から何かを言われたとしても私たちの久米島を良くしたいという気持ちに変わりはありません。この気持ちは久米島の人であっても変えることはないでしょう。なぜなら、久米島を良くしたいと思っているのは私たちであって、久米島の人からお願いされたからやっているわけではないからなのです。自分でしたくないことは人に任せてしまうものです。私たちが久米島を非常に重要だと考え、実践することを決めたからこそ、私たちがやるべきことを人に任せるつもりはありません。
ですが、私たちの活動の原点にあるのは久米島の友人の熱い思いであって、それを思うと理解されていないことでさびしい気持ちにもなります。しかし、過去を振り返っていても何も生まれません。いつかまた久米島の人たちと手を取り合える日を夢に思いながら、その日まで私たちは結果を求めてひたすらモノづくりに励んでいきます。